ピッチの正確さと表現力。どちらか一つを選ぶなら?
「ピッチが正確なだけでは、人の心には響かない」
こんな言葉を聞いたことはありませんか?
もちろん、僕もその通りだと思います。しかし、もし究極の選択として「ピッチの正確さ」と「表現力」のどちらか一つを選ばなければならないとしたら、僕はピッチの正確さを選びます。
以前読んだ音楽教育者向けの書籍でも、ある音楽大学の教授が同じような考え方を紹介していました。
なぜ、表現力よりもピッチの正確さを優先するのでしょうか?
【メロディーそのものが音楽のストーリーを作っている】
音楽には、メロディー、リズム、ハーモニーなど、さまざまなルールがあります。
例えば、メロディーが上昇することで生まれる緊張感、ある音に到達したときの解放感、ハーモニーとの関係で生まれる色彩の変化。
これらは、作曲家が楽曲の中に組み込んだ音楽的なストーリーの一部です。
ところが、ピッチが大きく外れてしまうと、メロディーとハーモニーの関係が変わり、楽曲が本来持っているストーリーを十分に伝えられなくなる可能性があります。
「ピッチは悪くても、表現力があれば良い」
この考え方には、僕は少し疑問があります。
音楽的な構造を正確に表現できていない状態で、感情表現だけを優先してしまうと、楽曲のストーリーよりも歌手自身の感情を押し付ける歌になってしまうこともあると思うのです。
【正確に歌うことと、個性を表現すること】
もちろん、楽譜どおりに歌うことだけが音楽表現ではありません。
ジャズやブルース、ポップスでは、意図的にピッチを変化させたり、リズムを後ろにずらしたりする表現があります。
大切なのは、それらを意図的にコントロールできているかどうかです。
音楽のルールを理解しているからこそ、そのルールを意図的に変えることもできる。
僕は、音楽的な正確さと歌手自身の個性は、対立するものではないと考えています。
【ピッチが不安定な生徒さんへのアプローチ】
では、実際のレッスンではどのように指導するのでしょうか?
僕はまず、ピアノで正しいメロディーを弾いて聴かせたり、自分自身で歌って聴かせたりします。
また、言葉を使ってメロディーの構造を説明することもあります。
例えば「ド・ド・ド・シ・ド」というメロディーがあったとします。
最初の3つの「ド」が徐々に「シ」の方向へ下がってしまう生徒さんには、
「ここは3つとも同じピッチだから、音程を動かさず、滑らかに歌い上げるようなイメージを持ってごらん」
と伝えることがあります。
つまり、正しい音を聴かせるだけでなく、どのようにメロディーを捉えるべきか、言葉でも理解してもらうわけです。
もちろん、メロディーを理解していても、発声のコントロールが追いつかず音程が不安定になる場合もあります。
その場合は、発声技術そのものへのアプローチも必要になります。
【リズムも音楽表現の重要な要素】
リズムが不安定な場合も同様です。
まずは楽曲の拍を正確に捉えられているかを確認します。
例えばメトロノームを使い、手拍子を加えながらメロディーを歌ってもらう。
ある程度拍を捉えられるようになったら、メトロノームを8分音符の裏拍に鳴らして練習することもあります。
こうすることで、単に一定のテンポで歌うだけでなく、拍とメロディーの関係や、楽曲特有のグルーヴを感じる練習にもつなげられます。
リズムもまた、楽曲のストーリーを形作る重要な要素なのです。
【音楽のルールを理解することが、表現の自由につながる】
僕が生徒さんに身につけてほしいのは、単にピッチやリズムを正確に再現する能力だけではありません。
そのメロディーがなぜそのように動いているのか、リズムがどのような音楽的な意味を持っているのかを理解し、自分自身の表現につなげられる能力です。
ピッチやリズムを正確にコントロールできるようになれば、意図的に変化させることもできるようになります。
つまり、音楽のルールを深く理解することは、表現の自由度を高めることにもつながるわけです。
正確な音楽表現という土台があってこそ、歌手自身の個性をより豊かに発揮できる。
僕はそのように考えています。